2010年7月10日土曜日

母の振る舞いの奇跡について

母の振る舞いの奇跡について

さて
日常生活で、よくよく観察してみる人間というのは
明らかにおかしな振る舞いをしていることが少なくない

しかし
現実にそういった振る舞いが起こっている以上
おかしいのは自分の頭であることを認めなければならない

母の振る舞いの奇跡について、と題うったが
ここでの母とは、夫婦としての母ではなく
「家で日々の食事を作ってくれる人」である


おばあちゃんであることもあるし
お父さんであることもあるし
人によっては、もう嫁さんが作ってくれているかもしれない


自炊している人は子供の頃を思い出してほしいのだが

なぜか
ご飯を作ってくれた人(母とか)のご飯が自分のご飯より少ない、とか

なぜか
自分のコロッケが一つ多い、とか

なぜか
母とかご飯を作ってくれた人は、自分だけ冷や飯を食べている、とか


そういうケースに遭遇したことはないだろうか
なければこの話は終わりだ


どうだろう
そういうことはあるだろうか?





とりあえずそういうことがあるとして話を進めよう

昔、幼いながらに聞いたのを覚えているが、


Q:なんでぼくのご飯は多いの?
A:子供はたくさん食べて大きくならなきゃね^^


この頃は、そうなのかーと納得していたが、それは違うだろうなという話で
争点は、
「なぜぼくのご飯は多く盛られたか」
である

食事を作る側の方が偉いのだから、
人間が利己的ならば、食事を作る人のご飯の方が多くて
食べるだけのぼくのご飯は、少なくても良さそうなものなのに
そうはならない

この妙について考えてみる


例えば大学でも、友達がご飯を作ってくれた時にも似たような現象は起こる.
作り手はなぜか他の人にどんどん食べてもらおうとするし、善そわれる量もきもち多い

その例を鑑みると
家族における親と子の関係とは違い、
大学の同期では、関係は友達だし、食事の振る舞う側と食べる側に大きな年齢の格差や収入の格差はないから

「子供だから」とか「愛故に」ご飯が多く盛られる
といった説は成り立たないとわかる

むしろ
「振る舞う」という役割が自分より他人を優先させている
というのが感覚的には近い


しかし、だとすれば
飲食店のご飯の悲惨な善そわれ方はどこから来たのだろうか
”ちょっとこの牛丼少なくね?(泣”だ

その意味では飲食店は
食事を”振る舞う”と”製造する”の境目にある

「兄ちゃん、卵おまけしてやるよ」なんてできる
のは振舞っている感覚のある場合だけということだ


分業が振る舞いを製造になす要因な気はするがね



あーそのなんだつまり
セル生産方式を飲食店に導入したらサービスの質があがるんじゃね
っていう話かな

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