2010年10月14日木曜日

ぼくの精神とぼくの感じようとする意味とほぼ同じということ

ぼくの精神とぼくの感じようとする意味とほぼ同じということ


高校生の時はよく考えていた
いわゆる”生きる意味”というやつ

それで
もう20も過ぎ社会人とならんとする今でも
また懲りずに”生きる意味”について
考えてしまうのだ

ここから先、勿論、データや事例もなく根拠もないので、
そこは、戯言、妄想の類として了解していただきたい


さて
タイトルの通り
いわゆるぼくに宿る”精神”と
ぼくが感じる世の中の事象の”意味”が同じである
というのが、今日の主張だ

”精神”と”意味”なんて全く異なる次元に思えるが
これはきっと、同じなんだ


”意味”のあるところに”精神”がある
そして”精神”がなにかと現実世界に”意味”を見出そうとするのは、”精神”が生きようとしているからだ


自分にとって、
机とはなにか
鉛筆とはなにか
家族とはなにか
母とはなにか
友人とはなにか
社会とはなにか
世界とはなにか
・・・
・・

という厳密な言葉の定義ではなく
曖昧模糊とした意味・印象の集合体、それ自体が
ぼくの”精神”である

またこの”精神”は
意味の集合体であると同時に、
いくつかの矛盾をもった意味などによって
自分自身、つまり意味・印象のデータベースを書き換える能力もある



<まとめ>
ぼくは辞書
しかし国語辞書とは違い
意味と意味との関係性も辞書に含むから
それによる意思決定ができる



おわり





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