2010年6月9日水曜日

第三次人生懐疑会議

第三次人生懐疑会議

不定期に開催されるこの会議では、
人生の意味について
あるいは無意味さについて言及し
なんとなく自分で勝手に納得しては終わる一人会議である

第一次会議
その時の結論は、因果関係を前提とすると
未来は確定していて
自分の下した判断は、あらゆる環境、状況、ポテンシャルによるものだから
自分には自由意思というものはなく
流れるままに流れるしかない、という結論であった
約6年前


第二次会議
因果から逃れる意思の物理的自由というものがない中にあっても
自分という主観から見れば
自分の意思、判断、何を成すかは、自由があり、自分の意思を認めることができる(のではないか)
去年あたり


それを踏まえて
本会議では

いわゆる
「成長」に意味はあるのか?
それについて問いたい

つまり
過去、現在、未来の中で
自分が移り変わっていき、成長、例えば、なんらかの不可能を可能にしていくことに
何か意味があるのか?という問い

しかし
”意味”についてかんが考える時、
自分がいずれ死ぬ、ということであれば概ね如何な行為、如何なものを意味がない.なぜなら死後の世界には何も持っていけないからである.

そうであるなら
さしずめ、輪廻の思想は現在に意味を持たせるには十分に強力だとわかる.輪廻を信じるものは救われる、と言ってよい

繰り返すようだが、少なくとも
「死」を確実に迎えると分かっている素体において
いかなる行為も
現実、生存地点において如何な意味を持っていても
「死」ねば意味をなさない


それが導くのは
「意味」というものが
富か名誉か、そういったなんらかの蓄積と共にある概念だという帰結


それこそ意味がない
むしろ意味があるものにこそ意味がない

つまり
問いがおかしい.
人生に意味があるのか、何かをやることに意味があるのか?という問いかけが破綻している.

ならば
そもそもこういった問いはどこからくるか考えてみた時
「こんなことやって意味があるんだろうか?」
と問いかけ、得られる答えは
1.意味があるので続けるべし
2.意味がないのでやめるべし

つまり
これは決断をするための問いであり
意味を問うとは、決断を論理に求める行為である

それ故にちゃんちゃらおかしい
意味があるのだろうか、と問うた時点で
感覚的に意味が喪失していることは明らかだ

論理がやめろといったらやめるのか?
論理が死ねといったらお前は死ぬのか?
と、そこに行き着く

むしろ
自らの行為というかモチベーションが先にある
それは食欲その他の欲求のように生理的に存在するものだ

行為に意味があるのかと問うたなら
むしろ心が乾いていて心の栄養を欲っしているというべきかや

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