高校生の時はよく考えていた
いわゆる”生きる意味”というやつ
それで
もう20も過ぎ社会人とならんとする今でも
また懲りずに”生きる意味”について
考えてしまうのだ
ここから先、勿論、データや事例もなく根拠もないので、
そこは、戯言、妄想の類として了解していただきたい
さて
タイトルの通り
いわゆるぼくに宿る”精神”と
ぼくが感じる世の中の事象の”意味”が同じである
というのが、今日の主張だ”精神”と”意味”なんて全く異なる次元に思えるが
これはきっと、同じなんだ
”意味”のあるところに”精神”がある
そして”精神”がなにかと現実世界に”意味”を見出そうとするのは、”精神”が生きようとしているからだ
自分にとって、
またこの”精神”は
机とはなにか
鉛筆とはなにか
家族とはなにか
母とはなにか
友人とはなにか
社会とはなにか
世界とはなにか
・・・
・・
・
という厳密な言葉の定義ではなく
曖昧模糊とした意味・印象の集合体、それ自体が
ぼくの”精神”である
またこの”精神”は
意味の集合体であると同時に、
いくつかの矛盾をもった意味などによって
自分自身、つまり意味・印象のデータベースを書き換える能力もある
<まとめ>
ぼくは辞書
しかし国語辞書とは違い
意味と意味との関係性も辞書に含むから
それによる意思決定ができる
おわり