2010年6月8日火曜日

酸素から二酸化炭素、そして虫の死と人の死、自分の死

酸素から二酸化炭素、そして虫の死と人の死、自分の死

ぼくは死をそれほど感じるわけではない
単純に若いのだろうし、
身体が健康であるからでもあろう

昨日、ぼくは一匹の小バエを無造作に殺し
そこに一抹の死の気配を感じたのだけれど

そもそも
慈悲の心というか
何かその、そこにあるものを助けてあげたいというような気持ちは

例えば
ぼくがここで呼吸をし
その結果、吸われた酸素が二酸化炭素として吐き出される時
ぼくは
この酸素を殺したのだろうか

酸素が生き物ではない、というのは
せいぜい科学のための定義であって本質的ではない
分子や原子であっても動いているのだから

そしてその一粒の酸素にとって
ぼくが決定的な働きかけをしたことは間違いない


石油や鉱物の中に犇めく分子や電子の群れを
そういった集団を引き裂いて
身の回りのありとあらゆる製品に用いる

そうやってぼくも含め人間というのは
ある種の暴力でもって
いわゆる自然、
元々にあった形、関係を切り崩していく



ではそういった
圧倒的な暴力を持つ人間において
自分と関わりのある死、忌避すべき死とは何か

鉱物が壊れるよりは虫の死を
虫の死よりは人の死を
あるいは
人の死よりはより近しい人の死を
そして
最も近しい自分の死を

自分に近い死ほど自分にとって大きな死であり
遠くの死には自分にとって概ね意味が感じられない



さて
死よりもっと身近な感情に苦しみがあるが
最も身近な苦しみについて

ぼくは
ぼくの苦しみを知っているだろうか

ぼくの身体の苦しみに
あるいは
心の苦しみに

ちゃんと耳を傾けているのだろうか
そして
苦しみを取り除こうとしているだろうか



まずは
そこから始めるべきだろう、と


そんなことを思っています


ーーー
本日の読書:ブッダ(手塚治虫

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