2011年2月5日土曜日

サービスを買っても時は増えない

サービスを買っても時は増えない

時はカネなり(Time is Money...)
古いことわざだが、その意味するところについて
少し思うことがあったのでここに記す
主に、3次産業全盛期の現代におけるその意味について


今のところ、3次産業が国内に占める割合は、市場規模的に見て、大体7割くらいだ
さて、時はカネなりという場合の時とはなんだろうか?
時がカネであるというくらいだ、
これは少なくとも金銭に変換可能な時間について言っている

いわゆる製品の金銭的な価値について言う時、例外として
自分の思い出の品をいくらで売るか、という問題がある
それがいくらカネを積まれても売らないというのであれば、そこにはいわゆるPricelessな製品が存在するわけだが

同様に時間についても同じことが言える
思い出そのものを含む時間の価値はPricelessだと言ったのはどこのCMだったか

これらはPricelessなので金銭的に変換できない
金銭的に変換可能な時間とは、”空白の時間”である。

現在の時間はもうすでにその地点にはないから
また過去の時間もすでにないから
金銭に変換しようとするならば、将来の時間であり、まだなにも書きこまれていない時間である

未来の”白板”をカネで塗りつぶして
それでいい作品(人生)だと言えるかね?という論点は
たぶん”時間泥棒”とかそのあたりで語られていることだろう

道徳的な観点は私の手には負えないから
ここでは時間の増大策について検討する

時間について
さて、時間とは私もあなたも概ね等しく持つものだと知られている
<アインシュタインによる厳密な時間の解釈は置いといて>

しかし、あなたとあなたを形成する60兆ほどの細胞は同じように時間をもっているだろうか?
一つには、寿命という点で各自が持っている時間は異なる

とはいえ、そもそも死があり寿命があるというのは、獲得された形質であり
生物に関して言えば、死のあるものはまた子を残す
種として持っている時間を見れば、生物もまたそれを構成する細胞群も同じように時間を持っているとみなすことができる

では、無機物についてはどうだろうか?
鉄は時間を持っているか?
それはわからない。ぼくはそう感じる、それはつまりぼくにとってそもそも時間という概念が死は常にセットであることがわかる

だけれども
”時はカネなり”といった場合の”時”について考えると
この場合の”時”は、鉄などの無機物も所持している。

”自動車”は時を持つ
それが寿命を持つという意味でも、また金銭的に変換可能という意味でもそうだ
私たちは道具として組み上げられた物質の”時”を使い、自分の時をあるいは金銭的価値を肥大化させていく

市場では、何かの”時”をのみ売っているのである。


さてここまで前置きが長くなったが
「市場は何かの”時”を売っているといった」
ここで今日の現実、すなわちサービス業が主体の経済について考察を加えていく

時はカネなり
時はカネなり

製品は物質の時を売っていると言った
ではサービスは?
サービスは人の時を売っている

そういう意味ではビジネスの大分類として
B2C(企業から消費者への販売)
B2B(企業から企業への販売)
の2つがあるが、厳密には
C2B(消費者から企業への)が存在し、それがいわゆる雇用関係である。

サービス業は何かと生産性が挙がらんで問題だと言われる
そのため、IBMがサービス・サイエンスやらをぶちあげたのだが


サービスは人の時を売っている、という観点に立つと
その理由に一つの憶測を立てることができる

「サービスを買っても、買った人の時は増えない」
ここ、ここだけがこの長ったらしく書いた文章の主張である

製品の場合、製品は時を持つ。
時はその物質が持つ時、あるいは構成された製品としての時だが
それはすなわち、物質からの時の一方的な搾取である

搾取であるから、そこから得られる時は基本的に安い
だから製品の購入によって時を増やすことができる

しかしサービスの場合はそうではない
もし、自分の人的価値と相手の人的価値が同じであれば
自分で作業をしようが、その間に仕事をしてサービスを買うのでは”違いがない”

もちろん、現実はこの前提にはなく
自分の人的価値と相手の人的価値が異なる故にサービス業は成立しているのだが
そもそも論としては、そうだ

基本的に、サービスを買っても時は増えない



では、どのようにすればサービスを買って時を増やすことができるのか?
端的にいえば、生活習慣の変更を伴ってサービスを買うことである
逆に言えば、生活習慣に変化を及ぼさないサービスの購入は、購入によって金銭価値をむしろ損失している。

生活習慣が変更され、自分の生活がなんらかの価値生成により最適化されることによる価値の差分だけが
サービス業から得られる便益である。


具体的な話をしよう
私は最近、論文にかかりっきりで食生活が乱れている
そのため、食事をコンビニのサンドイッチで済ませてしまうことも多々ある

コンビニで時を買っているわけだ

そして、やっぱりコンビニはちょっとばかり高い
しかし、年間を通して外食の頻度が十分に多いのであれば
外食生活に特化すれば、コンビニや外食の値段は必ずしも高いとは限らない

今時、電子レンジ、T-Fal、電磁調理器、炊飯器があれば大概のことはできる。
外食に特化した場合、部屋に台所や流しはいらないのだ
そのための維持費・初期費用が何年で外食による費用増加の何ヶ月分で償却されるか
そこが論点になってくる

現代において、飮食に関するサービスの発達した地域において
自炊に関する設備を維持しながらにして
コンビニや外食などのサービスによる付加価値の高い商品を頻繁に利用するのは
これすなわち道楽であり、金持ちか、あるいは自炊が趣味の人間のすることだ




これからますますサービスに接する機会は増えてくる
もちろん将来的に金銭に困らない人はなんら気にする必要はないが
趣味を厳選しなければならない程度に金銭が限られている人は
限られた資源でより質の高い生活をするために
サービスを利用するなら、それに依存した習慣と設備環境を構築していくことを考えてみてほしい

たとえば、コンビニが便利な場所に住んでいたり、ネットスーパーが発達したりすれば、冷蔵庫は必ずしも必要ない
ビールは飲む時に買えば良い
それで冷えたビールは飲める



最後にもう一度

サービスを買っても時は増えない
サービスを買って、生活習慣が変わることによってのみ私たちは豊かになれる



おわり
お粗末でした


読んでくれて、あ(・∀・)り(・∀・)が(・∀・)と(・∀・)う!








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