今日、親しい友人と話していて思ったのは、
生きていることの苦悩は、人によってそんなに変わらんのだろうと
それでじゃあなんで
快活な人と鬱だ氏のうな人がでてくるか、って
一つは、調子の波があってそれが人それぞれ違うってこと
それで自分が調子悪い時に、調子のいい人を見れば、
そりゃあ、うらやましけしからんとなりますわ
それで更に言えば
調子のいい時は、なにかしら夢中になっているので
周りにいる”鬱だ氏のう”的な人は眼中になく
自分と他人とを比較する時は、決まって調子の悪い時となります
それで
ちょっとした自己嫌悪
”なんて自分ってダメなんだろう”
みたいな、になってくる
で
仮に、生きていることの苦悩が人によって変わらないとして
そして調子の波が人それぞれ違うので、快活な人と鬱だ氏のうな人に分かれてくるとして
しかし
前提がその二つだけだったら
快活な人と鬱だ氏のうな人はいつも、入れ替わり立ち替わりしているはずなのですが現実には、なんか元気度が総じて高そうな人とそうでない人がいるので
この二つの要件に
表現の要素を加えまして
調子が悪い時には、どんな人であろうと”鬱だ氏のう”アピールをする、ということを考えます
それで、
”誰に”、あるいは”どこで”、「鬱だ氏のう」アピールをするべきかを弁えている人
というのが快活な人じゃないか、と考えられるわけです
その不安を誰に話すべきかがはっきりしているから、逆にそれ以外の人には、不安な素振りが漏れない
周りの人を不必要に不安にさせなくて済む、と
で、たぶんできるやつというのは
不安の種類、
例えば、政治的・社会的な不安や職場・人間関係の不安、個人の心理的な不安
といったそれぞれの不安に応じて
その話題と相性のいい知人に聞いてもらうことができるやつなんでしょうな
ぬーん